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侮れないタイムドーム明石 [和の催し]

■タイムドーム明石

100円で充実の内容。
展示面積は40㎡くらいだろうか、それほど広くはない。
だが、じっくりゆっくり見れば、1時間はくだらない。
液晶タッチパネルでクイズ出題コーナーを設けるなど、子供も大人も飽きさせない工夫が。
じみっちゃ地味です。
でもその地味さの中にきらっと光る逸物が。
目に留まったいくつかの展示品を下に記します。

・江戸三座入場券(三座全て揃っているのはここだけ!)
切落…客を入るだけ詰め込む後方自由席
土間…やや効果。購入後のいたずら書きが認められる。

・地層ごとに出土した皿が深度ごとに一列に展示され、わかりやすい。
・沽券高…地価の事
・白魚献上箱…赤漆の箱を黒漆の箱に入れて、将軍に献上。献上は現在でも行われている。
築地ホテル…清水喜助(二代目)が建設。清水は現在の清水建設の創業者の息子で、二代目まで名前を襲名している。4年で消失(THE FAR EASTから写真多し)
・精錡水…目薬のこと。ヘボン博士が岸田吟香に伝授し、日本発の目薬販売者となる。岸田は東京日日新聞に入社した人物。
・外国人居住地…明治32年に廃止、大正12年まで異国情緒漂う街並みは残っていた。震災で壊滅。
・擬宝珠…常盤橋の擬宝珠(1658年)。日本橋と同じ年に椎名兵庫によって作製される。
・真砂座…明治26年に中洲設立。新派劇上演大正6年に解散。

特に幕末に海軍操練所や外国人居留地が建てられた変遷が、ドラマティックで面白い。
こんなに様変わりした土地もないだろう。

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築地~明石町めぐり [江戸寺社・史跡めぐり]

■波除稲荷神社

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築地といえばおなじみの波除神社。境内には築地にまつわる供養碑が沢山あります。
http://www.namiyoke.or.jp/
すし・魚・玉子・刃物、はては稲荷神社まで。
右手の巨大獅子頭の社は土足のまま緋毛氈を上って中を見学できます。
昔は頭の洞の中には沢山の御札をご利益祈願のために入れていたそうな。

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↑知らぬとぎょっとする巨大獅子頭。どうやって出るのかしら…


■濱野家住宅(築地7-10-8)

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>>海産物の仲介をしていた濱野家の昭和5年頃に建てられた店舗併用住宅。軒を出桁造(だしげたづくり)とし、一階入口上部には太い人見柱が渡されている。築地に残る出桁造の町家の中でも完成した形をしている。区民有形文化財。

住みたい!と思いましたが賃貸ではなくて売買物件なのですね・・・。
若干坂道なので、引き戸もきちんと計算されて傾斜しています。


■シーボルトの胸像

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>>1823年(文政6年)に長崎に到着したオランダの商館医員フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、その後江戸にやってきて日本橋の長崎屋に止宿し、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。この地は江戸蘭学発祥の地である事と、シーボルトが長崎でもうけた娘が築地に産院を開業したことから、あかつき公園内に胸像が建てられた。


■日本近代文化事始の地 「慶應義塾開塾の地」「蘭学事始の地」

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>>蘭学事始地(明石町11先) 1771年(明和8年)に、豊前国(大分県)中津藩の医師、前野良沢が杉田玄白らと共に、オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」(「解体新書」)を築地鉄砲洲にあった中津藩奥平家中屋敷で翻訳した。都指定旧跡。



■芥川龍之介生誕の地

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■浅野内匠頭邸跡

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徒歩で考えると、江戸城からは割と距離があるような。
江戸城内での刃傷沙汰が屋敷に届くまでの距離と時間を考えると、さぞや当時の藩士たちはやきもきしただろう。由来のある場所にくると、なんとはなく往時の状態が再現され、身近に感じることができる。



■女子学院発祥の地

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■立教学院発祥の地

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■聖路加国際病院 トイスラー記念館 (中央区明石町10)

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■アメリカ公使館跡石標

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■「築地外国人居留地跡」 「ガス街灯の柱」

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■カトリック築地教会
 

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↑やすっぽいパルテノン神殿のような。石柱は一応ドーリア式。


■青山学院記念の地

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築地よりみち館 [和の催し]

■築地共栄会

築地ボン・マルシェも入っている築地共栄会の2階。
http://www.tsukijikyoueikai.co.jp/shop/yorimichi/index.html

浮世絵パネルや往時の写真パネルなどが飾られ、しられざる築地の明治期が見えてきた。
なんと築地には日本発の西洋式ホテルが建てられていた。
しかも火事により四年という短命さで消失。その後は再建されなかった。
ホテルは函館の時計台のように、一辺の中央辺りから鐘付台か見晴台のような尖塔がすっくと立っている。

天守閣への登場門のように開口されたエントランスへは、馬車や騎乗したままで入っていく外国人、着物で徒歩のまま入っていく日本人が生き生きと描かれている。
写真もあって、和とも洋ともつかない素敵な建物だった。
現存していたら絶対東京の観光名所になったに違いない。
広い道路、海が臨め、江戸にいながら避暑地。なんて勿体無い。
しかし四年目は殆ど客が入らず、閑古鳥だったそうだ。
何故だろう? 外国人は居を構え、日本人は泊らない。そんな状況だったのだろうか。
現代の清水建設の創始者の二代目が建築にたずさわったという歴史も見逃せない。
人に歴史あり、ですね。


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