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新正堂で今年も切腹最中 [老舗飲食店・和のお店]

●HP…http://www.shinshodoh.co.jp/

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↑勢いで買った本。面白いです

神谷町~虎ノ門~新橋と続いた散歩も、ここ「新正堂」で締め。
14日は例年の討ち入りパレードがありました。
本場赤穂ではあのマツケンが大石内蔵助をやったとか。

東京の和菓子ではここの「切腹最中」を一番食べているのではと思う。
ずっしりとした重さの中に全てが詰まっている。
甘いのだけどコクがあって食べれば食べるほど小豆の風味も感じる餡、今焼いたかのような軽くて丈夫で香ばしい皮。
量も質もちょうどよく、食べたり無いこともなければ食傷気味になることもない。
切腹という言葉にひきずられないちょっとした高級感も感じます。
飽きることがないので、次の日のちょっとした楽しみに、と毎日食べてもいいくらいです。

義士羊羹も陣太鼓どら焼きも試しましたが、やはりここのはこれが一番。
【景気上昇最中】はまだなのですが、同じ最中なので味は「切腹」に似ているのでしょうか。

最近は木挽町広場で買いましたが、やはり浅野内匠頭お預けになった場所なのだなと想像しながら本店で買うのが一番いい。
繁華街から少し離れたところにある物寂しい雰囲気がまた無念さを想起させる。
遠くから現実を眺めているような。

そういえば店の前はここ数年ずっと工事中ですが、お預けになった【田村右京太夫屋敷跡の遺構】が発見されたことで、一時中断していたことはどうなったのでしょうか。
ある程度記録されたから工事が再開されたのか、それともまだそれが響いているのか。
今度調べてみようと思う。


虎ノ門めぐり②虎ノ門大坂屋砂場 [老舗飲食店・和のお店]

●木鉢会HP…http://www.kibati-kai.net/index.html
●幕末ポイント…山岡鉄舟ひいきの店




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「砂場」という名前は、大坂城築城の際に砂置き場で営業していたことに由来。
いつ大阪から東京に砂場系が進出したのかは定かではないらしいですが、江戸時代に「糀町七丁目砂場藤吉」の記録があるとのこと。
この虎ノ門砂場は、その砂場藤吉に養女として預けられた初代が開いたもの。
その砂場藤吉は南千住に移転し、幕末に室町砂場、明治初期にはこの虎ノ門砂場に分岐したそうです。
要するに現在「砂場藤吉」系は三店舗あるということですよね[ふらふら][exclamation&question]

創業当初はあの「江戸無血開城」裏の立役者といわれる山岡鉄舟も贔屓にしたそう。
山岡鉄舟はあんぱんの【木村屋】といい、様々な場所に揮毫やら書やらを残してますな。

1923年建築の木造三階建てのものといいますが、内装もお手洗いも古いデザインを残したまま明らかに綺麗に直していると思います。
そのさりげない美しさは、「改装」ではなく「改良」と言った方が正しいのかもしれません。
どうしたって木材はくすみ、薄汚くなっていきます。
ですが、この店には日本家屋ならではの木材の温かみもデザインも残しつつ、清潔なのです。
古民家改造のいいお手本だと思います。

窓際に座った際、隙間から店内脇の紅葉が見えたのがまた憎い。
偶然かもしれませんが、無機質なビルではなく自然が見える方がいいですものね。

懐が寂しく、あまり品数を多く頼めなかったのですがつまみの数々・そば汁粉など気になるお品書きがたくさん。
今回はあおり烏賊の天せいろと、温かいごぼう天そばを注文。
あおり烏賊はプリプリで衣もさくさく、いい油使ってますね。
さらっとからっと揚がってとっても美味しい。

ツユはちょい辛めなので少しずつ蕎麦猪口に出して。
ツユがキリッと鋭いので薬味は直接蕎麦の上か舌に含んでから、蕎麦をズルッと一気に口へ運ぶ。

味覚の鈍感な私は、あまり蕎麦の香りが感じられなかったけれど、相方は称賛。
私はそれよりも、食事中に仕事の長電話に捕まってしまった人へ料理を温めて出し直すか伺っていたり、お茶の出す時間配分などの、細やかな接客に惚れてしまった。当たり前っちゃ当たり前なのだろうけど、慇懃無礼過ぎず丁寧でよかったのですよね。

つまみもないのにうっかりビールを頼んでしまって、さらにそば湯とお茶とで胃が膨れてしまった(笑)。次こそは。
何回も訪れたい、居心地のいい蕎麦屋です。


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虎ノ門めぐり①金比羅宮 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

●HP…http://www.kotohira.or.jp/yuisyo.html

>>立札抜粋
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
 当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
 ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。

大名屋敷の敷地内にあった金毘羅さん。
今は気軽に「一般公開」といいますが、江戸時代は封建制度なのでその名の通り平民は「一般人」。
職人・商人以外は普段足を踏み入れることは皆無といっていい場所に、どのような気持ちで入ったのっでしょうか。
緊張でしょうか、それとも花見でもするように気軽な気持ちだったのでしょうか。
武家の方も、奥方たちは気軽に出歩けないので、日ごろ接しない町人たちを障子の隙間から覗いて楽しんでいたのだろうか。
そのほか警備体制はどうだったのかとか、色々気になります。

ビルに取り込まれた建築物になっていますが、自然の中に無い神社は嫌ですね〜。
人工物そのものでしかないイスラム・キリスト教会とは違い、自然との一体感が無い神社は神秘性が損なわれます。
しかし、建築の方位的に道路に対して斜めになっていることから、方位や鎮座の場所が大事な神道において、その場所だけは動かしていないだろうということが想像できる。
都会の生き残り戦略としてはしょうがないのかもしれません。
そういえば、日本古来の神を祀る新しい神社は造営されているのでしょうか(建て替えではなく)。
現代まで存続したものが、廃社され、徐々に減っている一方なのでしょうか。
ビルを眺めながらふと思いました。

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