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神谷町めぐり⑤勝軍地蔵菩薩 [◇江戸寺社・史跡めぐり]




愛宕神社への参道入り口右脇のビルの植え込みにあります。
元々は天平十年(738)に行基が造顕したもので、同地に安置された地蔵菩薩。
家康が本能寺の変の難を逃れる伊賀越えに際し、この地蔵を献上されたことから、家康の帰依があつかったと記載されています。

その後、愛宕神社創建とともに円福寺の本地仏とするが、廃仏毀釈で前出の真福寺に移されたが関東大震災で焼失してしまい、現在の物は昭和九年に銅製で造顕されたもの。
大震災による損害、ここでもか…ですね。

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神谷町めぐり④オランダ使節宿館跡 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■真福寺

●幕末ポイント…オランダ使節団の宿舎

>>案内板抜粋
幕府は、安政5年(1858)、アメリカを初め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五カ国と通商条約を結び、江戸の地には、外国の使節の往来がはげしくなった。
この間、、江戸における使節団の宿舎として、攘夷派浪士への対策、多人数が収容できるなどの理由から寺院が選ばれている。ことに港区内の寺院は、開港場と江戸を結ぶという地理的条件から宿舎に指定されるものが多かった。
真福寺は安政5年3月から約半年間、オランダ使節の宿舎となり、以後、当寺は、短期間であったが、ロシアやフランスの宿舎にもなった。なお、当時の建物は関東大震災で焼失した。


幕末は幕府も財政難であったから、寺院としては費用もかかるし、いつ外国人を狙った攘夷派が踏み込んでくるかもわからないしで歓迎すべき役目ではなかっただろう。
それにしても江戸城に近いなと思う。近くで監視するためもあったのだろうか。

当時を偲ばせるものは何もなく、巨大なビルが元の境内の広さを想起させるだけである。
ちなみに真言宗智山派総本山智積院の別院というだけあって、本堂は大変立派です(現代的ですが)。
華美な天蓋のある薬師如来の美しさが際だちます。

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神谷町めぐり③こんにゃく閻魔 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■興昭院

こんにゃく閻魔といえば小石川の源覚寺が有名ですが、こちら港区にもありました。
ご利益やこんにゃくのいわれは同じ様です。

天保9年(1838)管区おの「東都歳時記」正月十六日の条に「閻魔参り」と記載されていて、眼病に霊験あらたかとして信仰が篤かったようです。
結構磨耗しているので、今まで参拝したかたの念や歳月を感じさせるものがあります。

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神谷町めぐり②杉田玄白の墓 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■栄閑院

>>案内板抜粋
杉田玄白(1733-1817)は江戸中期の蘭医杉田甫仙の子、名は翼、字は子鳳、号は鵜斎、九幸翁など。江戸に生まれ、西玄哲に外科、西幸作にオランダ外科を学んだ。前野良沢、桂川甫周らとオランダ語解剖書を翻訳した「解体新書」は日本医学史上画期的な文献である。文化12年(1815)に脱稿した「蘭学事始」は「解体新書」翻訳の苦心談を回想した点で有名である。このほか「形影夜話」「野叟独語」などの著書がある。(港区教育委員会)


江戸時代、この寺に猿回しの泥棒が逃げ込んで住職に説教されて改心し、諸国行脚の巡礼に出た後、寺で預かった猿が芸を見せるようになって「猿寺」とも呼ばれた、という言い伝えがあるようです。

本堂前には狛犬ならぬ二体の猿の石像が構えており、その賢者のような風貌に心が和みます。
本堂右脇、小さな門をくぐると、壁沿いに観音像やお墓が並びます。
杉田玄白の墓は向かって左奥にあり、参列者が絶えず訪れているようで、小綺麗にされていました。
山門前にも、史跡巡り愛好会のような方たちが集まっていたので、知っている人には有名なのかもしれませんね。

墓は明治41年に再建されたもので、「九幸杉田先生之墓」と記されており、東京都の史跡に指定されています。

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神谷町めぐり①天徳寺 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

>>立札抜粋
板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地で造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種である。鎌倉時代には地方豪族や 僧侶によって立てられたが、南北朝時代以後は庶民にまで広がり、その造立も民間信仰と密接に関連し、本来の仏教的色彩は薄 れた。 本板碑は、緑泥片岩(秩父青岩)の一尊種子板碑で、高さ68センチ、幅29センチ、頭部を山形に造り、その下に二段の切り込みを入れ、身部の幅は同等で変わらない。身部上半に蓮華座上に梵字「キリーク」(阿弥陀仏9を異字体で表し、下半には「永仁6 年7月日」(西暦1298年)の銘を刻む。梵字が分断直裁の薬研彫でやや浅く、年が草体 で記されており、時代の特徴をよく示している。 鎌倉時代の造立刻銘をもつ種子板碑の典型 であり、港区内には稀少な存在である。
(港区教育委員会)


寺内を回りましたが立札にある板碑がどれを指すのかわかりませんでした。(後に他ウェブサイトて判明)
鎌倉時代のものということで、是非この目で確かめたかったのですが…

寺というには不思議な構図で、庭園の中央に巨木があり、車回しのようにその周囲に堂宇や墓が配置されています。
火事や震災で縮小する際にこうなってしまったのでしょうか。
八角系の堂宇は綺麗で堂々としているが、民家のような仮本堂が不思議なバランス。
自然の多い寛げる雰囲気です。

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