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旧東海道めぐり⑩~立会川近辺 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■坂本龍馬の銅像

青物横丁から電車で一気に立会川へ。
前何年も住んでいたこともあるので知っているのですが、ここの商店街は大河ドラマと同時に町おこしを始めました。
この銅像は「設置⇒撤去⇒代わりにカーボンでできた像設置⇒現在の銅像に」という変遷を辿っています。
ブーツではなく草履を履いているのが珍しいところです。

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↑後ろの電飾は不要だと思うのですが

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↑学生が作成した「こころざしの馬」というオブジェ


■大黒屋

目黒の「たけのこせんべい」で知られている大黒屋の分店です。
何故か立会川にあります。
その昔目黒は竹林が茂り、たけのこが採れることで知られていました。
店内には往時を偲ぶ雑誌記事などの切り抜きが紹介されていました。
店内は狭いながらも清潔感があります。愛想のいいおかみさんがいらっしゃいます。

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■天祖諏訪神社

〈由来・看板より〉
天祖諏訪神社は、天祖諏訪神社の創建年代は不詳ですが、大井村開闢とともに創建されたと伝えられます。江戸期には神明社として、(大井村内) 旧浜川町の鎮守でした。昭和40年(「品川区の 文化財」では昭和28年)に天祖神社と諏訪神社 が合併したといいます。
〈基本情報〉
祭神…天照大御神、豊受姫神、建御名方神、小碓命
東海七福神…福禄寿


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↑池の中洲に作られた厳島神社。立派な鯉が泳いでいます


■浜川神社

<基本情報>
祭神…須佐之男命

鈴が森へ向かう道すがら、諏訪神社の兼務社の浜川神社に出会う。
といっても敷地内がマンションの一部になっているので、中に入ることはできず、地上から辛うじて千木が見えました。


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■鈴ヶ森刑場跡

 

〈基本情報〉
大経寺…日蓮宗
刑場…慶安4年(1651)に開設

鈴ヶ森刑場に隣接する大経寺は伝統的な寺院の建築物ではないので、まるで火葬場のよう。
明治四年に廃止されたあと海岸線の変化に伴い現在の場所に移動されたそうですが、現在も井戸や、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されています。
特に火炙りの礎石は「八百屋お七」が処せられたといわれ、石の焼けたような焦げ跡が生々しい。

高速道路の出入り口で宅地の外れなので、とても殺伐とした侘しい場所。
歌舞伎の【
鈴ヶ森】などでは鬱蒼とした茂みから雲助らが襲いかかるシーンが多いので、当時の村はずれの辺鄙な風景を想像しました。
当時は冤罪も多かったことは想像に難くない。無縁仏の供養塔はどこか悲しげに見えます。

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↑舞台にも登場するお題目

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↑磔台と火炎台

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旧東海道めぐり⑨~新馬場から青物横丁<2> [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■長徳寺

〈基本情報〉
宗派…時宗
本尊…阿弥陀如来像
〈由来・看板より〉
長徳寺は、三寮覺阿弥陀佛が開山となり現東海寺の地に寛正4年(1463)創建、東海寺建立に伴い当地へ移転したといいます。江戸時代には下蛇窪(品川区二葉附近)に寺領5石の御朱印状を与えられた御朱印寺でした。当寺の閻魔堂は、南品川にあった東光寺という時宗寺院があったものの、大龍寺に譲ることになり、その堂宇を移したものだといいます

あの運慶作と言われている「品川の閻魔様」が有名ですが、閻魔堂の扉は閉ざされておりガラス越しに遥拝しました。木造なのでしょう、だいぶ黒ずんでいるようです。

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■天妙国寺

〈基本情報〉
宗派…顕本法華宗
本尊…釈迦如来
〈由来〉
顕本法華宗の天妙国寺は、鳳凰山と号し、顕本法華宗の別格山で、江戸時代には、南品川本光寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末触頭三寺でした。弘安8年(1285)に日蓮の弟子中老僧天目が開創、江戸時代には寺領10石の朱印を賜っています

立派な赤い山門が目につきます。
本堂も立派なもので、開いていましたがちょうど法事が行われていた後のようなので、本堂にはあがらず遥拝しました。
向かって左手に日本庭園があったので、公開庭園なのかと思いきや、どうやら住職の邸宅のようでした。庭園を囲む塀の前には、元禄十五年の江戸大火で焼失する前の「五重塔の礎石」が残されていました。

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■旅籠屋釜屋の碑

●幕末ポイント…新撰組の常宿

マンションの一角に看板のみ残されています。
ここまでの道のり、自治体から補助金が出るので江戸風の暖簾、看板、格子窓をつけるなど景観に「東海道らしさ」を出す工夫がなされていますが、北品川~新馬場まではほどよい雰囲気ですが青物横丁にくると新築マンション、オシャレなカフェなどが立ち並ぶようになります。
その中でも老舗は履物や、古い外観を残した飲食店は多いものの、宿屋はゲストハウス一軒しかありません。
この看板は、旅籠の様子を伝える唯一のものと言っていいでしょう。

新撰組は慶応3年、隊士募集の際に「武士は東(あずま)にかぎる」といって、土方歳三や井上源三郎がわざわざ江戸まで出張っています。

もちろん多摩にも顔を出し、そこで意気揚々とした青年を迎えました。
井上源三郎の甥は、まだ8歳そこらで若いから駄目だというのに頑なにいうことを聞かず、結局小姓として上京してしまった。
源三郎の死亡の際に、彼の首を切って持って帰る途中、戦禍の疲れで首を置いてきてしまったという逸話があります。
あまり知られていませんが、新撰組ですが江戸詰の隊士・中島登がおり、土方ら幹部に江戸の動向を知らせていました。上京した土方らとはここであったかもしれませんね。

また、そして慶応4年(1868年)1月 鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に帰ってきた時に、しばらくの間ここに滞在したそうです。近藤勇と土方歳三が、永倉新八・原田左之助と袂を分かったのもこの時期です。

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■品川寺

<基本情報>
宗派…真言宗醍醐派
本尊…正観世音
<由来・看板より>
品川寺の創建年代は不詳ですが、当初金華山大円寺と称し、弘尊が承応元年に中興開山しました。戦国時代、兵火により焼失しましたが、海山普門院と改称して復興しております。
本尊の正観音は太田道灌の持仏で、長禄年品川の館から江戸城に移った頃、武運の長久と城中及江戸鎮護の為、この本尊を堂内に安置して伽藍を建立しました

まず山門前の大きな地蔵が目に飛び込んできます。
旅の安全祈願のため、江戸の入り口の六カ所に造立したという「江戸六地蔵」の一つです。
江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり病気平癒を地蔵菩薩に祈ったところ平癒した、という謂れがあります。
また、樹齢600年のイチョウや七福神の像、弁財天の祠、昭和60年に当時の皇太子ご夫妻が撒いた種が成長した花梨の木があります。

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旧東海道めぐり⑧~新馬場から青物横丁<1> [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■獅子舞教室

もやもやさま~ずで登場した獅子舞を教える教室を開いているお宅です。
偶然通りかかりました。

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■品川宿交流館

史跡めぐりマップ以外にも沢山の飲食店の情報など満載です。
二階は資料館になっており、今回は地元の郷土史家の特集でした。
一階では緋毛氈を敷いた床机があり休憩も出来ます。駄菓子を史跡めぐりのお供に。


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■海徳寺

〈基本情報〉
宗派…日蓮宗
本尊…三宝祖師像
〈由来〉
日蓮宗寺院の海徳寺は、自覚山松陽院と号します。海徳寺は、大永2年(1522)鳥海和泉守(法名自覚院岸日性)が出家し自宅を寺としたといい、松陽院日増(天文14年1545年寂)が開山したといいます。鳥海和泉守の子孫は、江戸時代に名主を務めた利田吉左衛門だといいます

境内は玉石が敷き詰められとても清潔感があります。
王貞治さん由来のホームラン地蔵があるということですが、見つけられませんでした・・・。
それよりも、慶応三年と署名のある「切支丹家門・・・」云々のお触書が貴重だと思いました。
邪宗・・・云々とも記述があり、きっと固く戒めている内容なのでしょう。

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↑慶応三年のお触書

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↑珍しい築地塀に囲まれた仏陀像

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↑蛙股と虹梁には立派な彫り物


■三岳神社

住宅地の中にあります。由緒は不詳ですが、慶長六年(1601)に品川宿が制定の際この地に移ったとのこと。

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旧東海道めぐり⑦~新馬場付近 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■日向佐渡原藩島津家抱屋敷跡

荏原神社へ向かう途中、図書館の脇に立て看板。抱え屋敷とは、別宅のようなものですね。
「本家から八代久柄が譲り受けた」と書いてあります。宿砲地であった、と記載がありますが、砲台なども置いていて軍備が整えられる広い屋敷だったという事でしょうか。


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■荏原神社

〈基本情報〉
祭神…高龍神
配祀…天照皇大神、須佐男之神、豊受姫之命、手力雄之神、大鳥大神、恵比寿 神
末社…伊邪那岐命、伊邪那美命、稲荷大神、応神天皇、徳川家康公、白山姫命、大国主命、木花開那姫命、市杵嶋姫命
〈由緒〉
荏原神社は、和銅2年(709)9月9日、奈良丹生 川上神社より高麗神(龍神)を勧請し、創建され ました。長元2年(1029)に神明宮、宝治元年 (1247)に牛頭天王を勧請し、古くから品川の 龍神さまとして親しまれ、貴船社、貴船大明神、 品川大明神と呼ばれ、江戸時代には2石5斗(5石 を品川神社と折半)のご朱印を受け、明治時代には准勅祭社の一社に指定されていました

赤い欄干の可愛らしい橋を渡ると、その一角だけ妙に雅な空間が広がります。
本殿は江戸時代に再建されたそうですが、創建は709年と古く、皇室・徳川家・上杉家・源氏とも関係があります。
「こちらで願うと必ず叶う」といわれがありますが、故に境内にアニメキャラの巫女さんポスターがあったのはなんだか軽薄な気がして残念です。

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■品川橋

風情のある休憩所となっています。
品川領の村人は年貢米を目黒川や陸路を使ってこの河岸まで運び、ここから浅草御殿に送っていました。
品川宿のそばに百足屋という旅籠屋があったことから百足河岸と呼ばれていたそうです。

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旧東海道めぐり⑥~いちょうの木 [老舗飲食店・和のお店]

●HP…http://www1.odn.ne.jp/~cdv71250/ichounoki/ichounoki.html

なんともノスタルジックな喫茶店。
外観は山小屋風で、最近はやりの黒板にメニュー。
中に入るとカウンターの下には大辞典がずらり、その上には鉄瓶がずらり。
南部鉄器のコレクションがあったり、軒先には風鈴がぶらさがっていたり。
かと思えば中庭にはヴィクトリア調の椅子とテーブルが置いてあったり。
流れているBGMはハウスかジャズかOSTなのか。しかもCDラジカセときた。

しかーし店内の不思議な空気をよそに、ここの白玉は半端なく美味しい!
茹でたての水のツルッとした口当たりがいかにも手作り感満載だけど、弾力といい大きさといい最高に満足。
白玉に隠れた小豆の炊き方もふわっと。
何より意外だったのは、アイスコーヒー(ブラック)がセットなこと。
最初「蜜?」と思ってスプーンで掬ってなめてしまった(笑。
気を取り直していただくと、白玉にコーヒーがびっくりするほど合う!というかここのアイスコーヒーが異常に美味しかったので、もう白玉とか云々ではなかったのかもしれない。

きしめんはたっぷりの鰹節で麺が覆われていました。
他には何も入っていない素うどんの状態なのですが、飽きのこない美味しさ。何より安い!

かき氷も有名らしく、色々なシロップを組み合わせて注文できます。夏に再訪したい。
旅行用のスクラップブックに工夫されたメニューは、見ているだけで楽しい。
様々なレシートや写真がコラージュされていて、むしろメニューリストの割合の方が少ないくらい。
それでも品書きが一目でわかるのは何故だろう。
このカオス空間は案外居心地がよくって、一度はまるとなかなか抜け出せません。

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旧東海道めぐり⑤~東海寺 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■東海寺
〈基本情報〉
臨済宗大徳寺派

〈由来〉

東海寺は、寛永15年(1638)徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山しました。
寺領5000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院です。
明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っています。

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寺と墓所が国道で大分断されています。
細川家墓所は元は妙解院という寺内にあったそうですが廃寺になり、墓地のみ残されている状態です。
立ち入り禁止なのか、とあるマンションの裏手にありまして塀でグルリと囲まれています。

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↑マンションの裏手の柵からのぞむ墓地

国道から寺に向かう参道は工事中で通れず、大回りすると日が暮れてしまいそうなので諦めました。
墓所はこんもりとした広大な敷地となっており、中には沢庵和渋川春海賀茂真淵など著名人が眠っています。
沢庵和尚は言わずもがなですが、宮本武蔵の師匠として、また柳生宗則や天海らからも一目置かれていた人物ですね。
家光に請われて東海寺の住職になりましたが、「墓碑は建てるな、法事はするな、自分の書物は作るな」などと、まるで自分の存在を消して
しまいたいような遺誡を残したため、没後108年後に墓が造られました。
墓石は漬物石ということですが(笑)、古墳のようにも見えます

 渋川晴海は小さなお墓でした。
【天地明察】という小説や映画で一躍注目されましたね。
小説は時代小説の重厚さがない軽い文体で読みやすかったです。
まさかこんな地元に埋まっているとは・・・。 

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↑参道入り口に設置された墓所までの道案内

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↑明治九年に官営の硝子製作所が東海寺地所にあったとのこと

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天地明察

天地明察

  • 作者: 冲方 丁
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本


旧東海道めぐり④〜品川神社と板垣退助の墓 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■品川神社

〈基本情報〉
祭神…天比理乃
配祀…素盞嗚尊、宇賀之売命
末社…阿那稲荷社、御嶽神社、清滝弁財天 社、浅間神社、猿田彦神社
東海七福神…大黒天
〈由来〉
文治3年 (1185)に源頼朝が安房国州崎明神を勧請した。 元応(1319)当国の守護二階堂出羽入道道蘊が、当社の神威を感じて本社を新たに造立。 応永年中(1394)当郷の住人鈴木正清入道 幸純が当社を深く崇敬して、永享4年 (1429)社殿の造営を行った。 長禄年中(1457)太田道灌が江戸城に入り、文明10年(1478)6月に、自ら牛頭天王を勧請して神事を怠慢なくつづけた。 後北条氏も崇敬し、数度にわたり修理を加えられた。 天正18年(1590)8月1日徳川家康が江戸城に入り、翌19年11月品川大明神へ5石の朱印社領地を賜った


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毎日のように車窓から眺めていますが、訪れるのは初めてでした。
下から見上げると意外と高いですね。更に富士塚を登ると木々が無い分下が丸見えなので、結構怖い。
愛宕神社でも四つんばいになったし、富士塚でもへっぴり腰で、相当なへたれぶりを見せた私。
高所恐怖症かもしれない。

ここは慶安元年(1648)に造立された鳥居や、一粒万倍の泉などが知られていますが、正月だからか宝物殿が開いていまして、そちらの方が入ってびっくり!もう宝の山で!というか宝の山すぎる!
なんていっても幕末三舟の直筆が揃う!

まず、
・1600年に徳川家康が関ヶ原の後、戦勝祈願に奉納した国常立尊面(通称赤面様)」のお面。天狗のような真っ赤な顔で、目をつぶっています。元は舞楽の「二の舞」に使用するお面だそうです。お守りとして頒布していたので頂きました。
・同じく家康が奉納した神輿。明治に勝海舟が「葵神輿」と命名。現代はこれを模倣した御輿を使用しているとのこと。
・勝海舟の揮毫した扁額
・高橋泥舟の書
・山岡鉄舟の書

・歴代将軍の御朱印状と御朱印箱(五代将軍綱吉と、慶喜だけは無し)
・皇族が和歌をしたためた短冊

そして本殿裏手にはなんと板垣退助の墓が!
わかりづらいですが、本殿右手に小さく案内板がでています。
裏手は崖になっていて、眼下には民家が。昔はもっと見晴らしがよかったのでしょう、でなければあえてここを選んだ意味がないですもんね。
佐藤栄作の揮毫した「自由は死なず」の石碑もあります。
品川近辺には山内容堂といい、意外と土佐の名士が故郷に帰らず埋まっているのですね。
ちなみに山内容堂は古墳のような墓でした。

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↑境内には様々な石碑が。これは纏の石碑

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↑一粒万倍の泉がある阿那稲荷神社

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↑洗った銭は地元で使えと。地産地消の精神…

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■板垣退助の墓

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↑板垣退助の祖父の墓もありました

旧東海道めぐり③~一心寺から品川宿本陣まで [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■一心寺

〈概要〉
本尊…不動明王
宗派…真言宗智山派
東海七福神…寿老人
〈由来〉
真言宗智山派寺院の一心寺は、豊盛山延命院と号し、安政2年(1855)に大老・井伊直弼により開山したと伝えられます。江戸時代末期の安政2年 (1855)に、井伊直弼が「東海道第一の宿である品川宿で鎮護日本・開国条約・宿場町民の安泰を願え」との霊験を得て開き、町民代表の手で建立された。

成田山別院です。ここだけ妙に瑞々しく麗しい香気に満たされています。
寺…というよりなんだか神社の雰囲気ですね。
安政二年に建立というから、それほどの歴史はありませんが、幕末の動乱期に外国から日本を守護する念をこめ井伊直弼が寄進。台場建立と不動明王のご利益で守ろうとしたのですね。
庶民を落ち着かせる為だったのかもしれません。
また、京都本願寺の宮大工が何かを手掛けたと書いてありますが、遠くて看板がよく読めませんでした(泣。

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■養願寺

〈基本情報〉
本尊…阿弥陀立像
宗派…天台宗
東海七福神…布袋尊
〈由来・看板より〉
養願寺は、正安元年(1299)に創建、什慶が寛文年中(1661-1672)に中興開山したといいます。銅造阿弥陀如来立像は、木像の観音・勢至像を脇侍とし、本尊の脇に安置されている。
身に納衣を通肩にまとい、右手を屈して五指を伸ばし、掌を正面に向けている。左手は垂下して第二指と第三指を伸ばし、徳の指を捻じた刀印を結ぶ。頭部体躰を一鋳に吹いている。 この像は、長野市にある善光寺の本尊の模作の一つであるが、鎌倉時代の製作と推定され、大変貴重なものである。(品川区教育委員会)

今年の干支、午年の守護神「勢至観音」も祀られています。
明るく清潔、小路と一体化している敷地なので、民家との距離感が近い寺。
なぜか京都をふっと思い出させます。

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■品川宿本陣跡

東海道大一番目の宿駅として賑わった品川宿の本陣跡。
明治天皇が行幸した折に立ち寄ったので、聖蹟公園と命名されています。
江戸中期までは南北に一軒ずつ本陣があったが、後期には北品川宿のみになったそうです。
「大名が宿泊すると大名の名を記した開札を立て、紋の入った幕をめぐらせました」と立て札に説明が。時代劇でお馴染みの風景ですね。

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↑東海道からは脇道から入ります

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↑井戸は閉じられています

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↑沢山の様々な石碑があります

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↑名誉区民の石井氏の銅像


旧東海道めぐり②~利田神社から法禅寺まで [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■利田神社

〈基本情報〉
祭神…弁財天
〈由来・看板より〉
利田神社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとされます。当地一帯 は安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけ て、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、当社も利田神社と称します。当社内には寛政10年(1798)5月に暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑鯨碑があります

神社は公園と一続きになった敷地にあり、鯨のオブジェがまず目につきます。
神社よりも打ち上げられた鯨の逸話の方が有名で、村民が引き揚げて江戸中話題になり、十一代将軍家斉が浜御殿で上覧したといわれてます。

神社自体は公園の裏に隠れていますが、こじんまりとしたかわいい社です。
気がついたら、こちらの祭神である弁財天が初詣になりました。
古地図をみると、松平相模守の「御台場」の裏でこの時代から既に埋め立て地のようです。

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↑道中の品川浦舟だまり

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■御殿山下砲台跡

前述の台場(砲台跡)のあった場所ですが、今は「台場小学校」となっています。
本物は愛知県に移設され、ここには子供に似つかわしい可愛い灯台のオブジェが。
礎石は残っているので、むしろそちらのほうが貴重。
がっしりした石組みはびくともしなそうです。
結局砲門は使用されることはなく、無用の長物となってしまいましたが、存在することで多少の威嚇にはなったのだと思いたい。

〈看板より〉
1853年6月3日(幕末)ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画した。 工事は、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山・伊予今治藩や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基であった。現存するのは、「第3台場」 (都立お台場海浜公園)と「第6台場」のみである


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■善福寺

〈基本情報〉
本尊…阿弥陀如来
宗派…時宗
〈由来〉
藤沢の遊行寺を総本山とする時宗のお寺で、永仁2年(1294 鎌倉時代後期)に遊行二祖、他阿真教によって開かれた

八ツ山通りに戻り、台場横町を通り東海道へ戻ります。
失礼かもしれませんが、びっくりしました。
「破れ寺」とでもいうのでしょうか。
本殿は少し傾いでいるし、屋根はトタンで補強されています。
ただ、広い敷地からは江戸時代は信仰の厚い場所だったのだろうと忍ばれます。
近づいて虹梁や蛙股をみると、龍や獅子の彫り物は立派。
左右からにゅっと突き出した龍は、壁に直に盛られた鏝絵。
おや?と思って手元の資料をみると、なんと!あの有名な「伊豆の長八」の作品でした。
このままだと風雪にさらされて痛みが進んでしまうのでは…と心配。
お話を聞いてみようと思いましたが、今回はちょっと勇気が足りませんでした(笑

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↑台場横町の看板

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↑歩行新宿裏町の看板

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■品川宿の看板

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■法禅寺

〈基本情報〉
本尊…阿弥陀坐像
宗派…浄土宗
〈板碑の由来・看板より〉
法禅寺板碑は、鎌倉時代から戦国時代 にかけて造られた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布している。石材は、関東では主として秩父産の緑泥片岩(青石)が使われている。 当寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含めて総数121基があ る。最も古いのは徳冶3年(1308)、最も新しいのは延徳2年(1490)の銘が確認される。これらは、幕末の品川台場の築造の折りに、御殿山の土取場から宝篋印塔・五輪塔とともに出土したもので、遺墳碑はその 時の由来を記している。 一ヵ所からこれほど大量に出土して保管されている例は、大田区の鵜の木光明寺とともに珍しく、大変貴重である。 法禅寺板碑のうち、宝徳4年(1452)銘の阿弥陀三尊種子を刻んだ板碑を品川区立品川歴史館で常設展示しています。(品川区教育委員会)

神谷町の「天徳寺」にもありましたが、鎌倉時代に盛んに作られた「板碑」が保管されています。
板碑といっても板ではなく、石を長方形に加工し文言を彫った物です。
また、天保の大飢饉の際、品川宿にたどり着くも死んでしまった多数の庶民を供養する供養搭があります。海蔵寺とこちらの寺に葬られたそうです。

また、『阿弥陀如来坐像(宝栄二年 安阿弥末流の大仏師、大部の作)、法然上人坐像(作者不明、鎌倉時代)、紙本着色地獄変相図1幅(神田宗庭貞信作1765~1800。神田家は上野寛永寺の絵画役を務める)、紙本着色釈尊誕生変相図1幅(品川宿で旅籠屋を営む田村屋清七作。1828年寄進)などなど、様々な宝物がありますが本殿は閉まっています。

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↑杉森稲荷

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↑天保の飢饉でなくなった人を弔う碑

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旧東海道めぐり①~北品川から土蔵相模まで [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■北品川から出発~八つ山

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↑左手に「ここより地内」の標識

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↑右手の御殿山には三菱の開東閣というJ・コンドル設計の洋館があります

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■問答河岸

かつて海岸先に波止場があり、そこから3代将軍徳川家光が東海寺に入るときに、沢庵和尚が迎え出た。
その時、「大軍を率いても将(小)軍とはこれいかに」と問答をした故事にちなみ名づけられたそうです。
宇都宮徳馬という衆議院議員が立て札を作成したようですが、風化して最後まで読めませんでした。


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■土蔵相模跡


●幕末ポイント…英国大使館焼き討ち事件

土蔵のような海鼠壁の旅籠だったため、「土蔵相模」と呼ばれました。
攘夷論者の高杉晋作久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、1862年12月12日夜半に英国公使館の焼き討ちを実行しました。
今はファミリーマートの入っているマンションになっています。

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■桝翁軒

創業は、幕末の嘉永2年(1849)で六代目のご主人。火事や戦災などで資料が焼け、はっきりとはしないそうですが、庭先の稲荷に前述の年号が刻まれているため、その年を創業としているそうです。
三が日過ぎのため、人通りもまばら、噂のみたらし団子が売り切れていました。[もうやだ~(悲しい顔)]
ですが勿論、上生菓子や饅頭も美味でした。

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旧東海道めぐり~町おこしに思うこと [◇江戸寺社・史跡めぐり]

正月も三が日を過ぎた五日、今回は地元を回ってみようという気になり、旧東海道めぐりをしました。
マップは東海道マップを参考に、青線で囲んだところへ。

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改めて寺社がとても多いこと、そのほとんどが微妙にさびれていること、伊豆長八の鏝絵が残されている寺社がチラホラあること、街道筋は町おこしのため、江戸の風情を思い起こさせる格子窓・日よけ暖簾・電飾を使わない吊るし看板などを使用すると、区が補助してくれることなどを知りました。

昭和初期の和洋折衷な「看板建築」が残されている店は、老舗が多いことも特徴です。
看板建築だけ残し、中は新しいという店はあまりないようですね。
上記建築は江戸風情の中にもしっくり溶け込む要素があるので、あまり取り壊さず新規参入店に貸すなどしてほしいものですね。

また、鎌倉時代の仏像や秘宝等も多いのに、檀家離れ、宗教離れにより本堂が拝観できない、うっちゃらかしてあるという現状がもったいない。
京都のように、拝観料を取りつつ保存するという流れを東京も汲んでもいいのではないでしょうか。
そして「東の京都も捨てがたい」などとキャッチコピーをつけて宣伝する(笑

何もかも物価が高い東京で、「また金をとるのか」と思われそうですが、誰も拝観できない・しない閉め切った本堂を通り過ぎるより、いいと思うのです。

でも、東京都民が愛さなければ始まらないので、都民はパスモやスイカや身分証をみせれば無料にするとか。思いつきですけれど。んーせっかく品川区はやる気になっているのだから、とことん改革して欲しいな。品川が東京の玄関口というのは昨今変わらないので。
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