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芹沢銈介の世界展 [★和の催し]

■日本橋高島屋

●HP・・・http://www.takashimaya.co.jp/store/special/event/serizawa.html

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人間国宝で、さらにフランスの国立グラン・パレ美術館で個展を大々的に催した素晴らしい芸術家なんですね。
今回知人からチケットを貰うまで知りませんでした。

今回は知識なしの飛び込み鑑賞だったのですが、その斬新さに目を奪われました。
脳裡にやきついたその色彩は、琉球紅型の鮮やかさもさることながら、日本古来の風合いも加味されて。
紅型は発色が鮮明ですが、東南アジアのそれとはちがう爽やかさがあって。

染め抜いた生地の上に抽象化・象形化された文字が躍る。
文字、がこれほどまでにデザイン化された例をみたことがない。
時代を匂わせないデザインです。というか古さを全く感じさせない。
いつ出会っても新しいと思わせるのではないでしょうか。
特に「飛」や「春夏秋冬」のデザインが好きです。

江戸小紋のような縦じまを雷のように図案化したものもあるし、浮世絵のようにくっきりとした切抜きで滝を染め抜いた暖簾もあるし、華柄の反物のベースに巻貝や兜をあしらった、「柄on柄」の激しく前衛的なデザインもあるし。

一貫して近寄りがたさは一切無く、どことなくほっこりとした温もりが感じられる。
勿論民芸品への思い入れも深いため、それに近しい作品が多くなるのは当たり前ともいえるけれど、人間国宝の芸術作品群として、これほど一般生活に近しい心象を与えてくれるのは珍しいのではないでしょうか。

戦後、物資がまるで無い時代に、それほど高級ではない和紙を使って作成した型染めカレンダーが「戦後の暗いムードを元気付けた」と資料映像で語られていました。
戦後の方にとっては、芹沢はポピュラーな存在だったのでしょうか。

身の回りで使いたい文具、実際に着てみたい着物、実際に使って見たい暖簾などたくさん。
縄のれんを染め抜いた暖簾は、そもそもそのアイデアが粋だし、生地の紺色も素敵。

お土産に実際に展示されていた着物の型染めをかたどった「着物ハガキ」を買いました。
勿論使いません(笑)小さな額縁に入れたら可愛いだろうな。


谷中めぐり④~高橋泥舟の墓 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■大雄寺

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■高橋泥舟の墓

カヤバ珈琲の対面の酒屋の通りを曲がってすぐに大雄寺がある。
本堂に向かって左に大きな「楠」があって、樹齢200年とあります。
楠というと、どうしても「楠木正成」を思い出してしまう。
幕末維新志士たちの崇拝を集めた象徴的な存在。
その楠の下で、徳川慶喜に倒幕軍への恭順を諭した高橋泥舟が眠っているというのも、なんともいえず感慨深い。

幕末、清河八郎が呼びかけて京都へのぼったあと、幕府をだました形で江戸に戻った浪士組。
その清河八郎が暗殺された後に再編成された浪士組は、名を改めて新徴組となる。
高橋泥舟はその責任者となるが、不埒者らの所行の責任を負わせられ、一時謹慎をくらうはめにあう。

新撰組とは直接的ではないにしろ、間接的な因果はある。
近藤らが京都に残らず江戸に帰っていたら、新徴組ももっとしっかりした組織になっていただろう。
ただ、なまじ勇猛猛者ばかりとなり、江戸での戦争は食い止められなかったかもしれない。

新撰組残党が流山でドンパチし、近藤勇が投獄したわずか八日後に、無血開城がなる。
泥舟は勝海舟に西郷との「江戸無血開城」の使者として頼まれるが、彼はその役目を娘婿の山岡鉄舟に預けることになる。泥舟の目に、行き場のない正義を掲げた幕府残党の戦いは、どのように映ったのであろうか。

「泥舟」という号から、昔話の「かちかち山」を連想したが、調べてみるとやはりそれから拝借したようで、その真意は詳しくないのだが「泥舟=沈みかかった舟」を幕府にたとえて、それでもその舟に乗っていた自分を揶揄したのかもしれない。
忠義の人である。

〈看板抜粋〉
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。

佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。

翌4年1月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。

勝海舟、山岡鉄舟とともに幕府の三舟といわれる。(台東区教育委員会掲示より)


谷中めぐり③~全生庵の幽霊画・鉄舟の墓 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■全生庵の幽霊画展

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↑題字は有栖川宮熾仁親王の篆書体詩文は勝海舟の書によって刻まれる

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三遊亭圓朝がコレクションした幽霊画が、命日のある8月いっぱい飾られていました。
HPでは全幅と書かれていますが、実際は展示会場の都合で五幅ほど少なく、隔年ごとに入れ替えるので、2年連続してこないとすべての鑑賞はできないとのこと。

もちろん円山応挙、月岡芳年などの著名な画家の作品は入れ替えることはない。
中には傑作なのに無名・由来不明の物も混じっており、圓朝の死後も藤浦家を通して全生庵に納められたらしい。

なぜ圓朝が幽霊画を集めたのか、なぜ全生庵にあるのか、その由来はHPに詳しい。
抜粋すると、「円朝が怪談会を催した時から蒐集しはじめた約百幅のうち、四十幅を藤浦富太郎氏を通じて全生庵に納められ、今日に伝えられている」とのこと。

で、何故百幅近くもあったのに40幅になってしまったかというと、案の定、関東大震災による焼失。
その前年に預けていた40幅だけが無事だったという顛末でした。
半分でさえ相当異形の雰囲気を湛えているのに、百もあったら一体どんな恐ろしい空間に…。

で、この藤浦家というのは、「三遊派宗家」でした。 藤浦三周が圓朝一門を経済的に支援した縁から「圓朝」の名跡を預かることになったとのこと。落語会では有名なのでしょうが、知らないと驚くことばかりですね。 
 
(作品一覧)
 1応挙、3〜5の光峨のうち一点、6是真、7・8綾岡、9玉章、10・11容斎、12省亭、13・14楓湖、15永湖、16文一、17文中、18誠一、20芳年、21国歳、22広重、23芳延、24勝文斎、25暁斎、26由一、27・28月耕、30芳中、31雪翁、32英朋、34光村、35一静、36冬崖、37五岱、39林静、40芳州、41文隆、43行真、44南海、47月菴、48甘禄、49の秋巌と雪窓が別々に二点として数えられている。

解説を読むと、圓朝の交友関係で集められた物が多く、彼の死後に収集されたと思われる物が二点あり、それは前述の藤浦氏によるものと思われるとのこと。

私が好きなのは無名の掛け軸、月と柳とひらりと落ちる葉が風情のある闇夜の風景。
一種のだまし絵になっていて、月にかかる闇夜に視点をあてると、口を開けた老婆の横顔が浮かび上がる。

あと、暴風雨の激しくしなる柳を描いたただの風景画(笑)
でも柳だけでうまく表現しており、風が怒号のような音を立てて暴れ狂う夜は、化け物がてるにちがいない…というような心理的恐怖を訴えてくる。
 
幽霊がは概ね、美しさに取り憑かれてしまいそうな美しい女性をはんなり描いたものと、木版画のように、はっきりとした輪郭で闇や雨や幽霊そのものを描いたものと概ね二分化してます。
女性と蚊帳というセットも多い。柳と同じく、昔から幽霊といえばお馴染みだったのだろうか。
あの霞がかっかた緑が、部屋にぼうっと浮かんでいるように見えるのが恐ろしいのか、それとも褥には念がこもるのか。

私はどれを飾るかと言われたら、もちろん美貌の幽霊物がいいけど、あのだまし絵がやっぱり一番いいなぁ。

また、按摩や瞽女の幽霊もあり、これはとても珍しいとのこと。
死してもなお、盲目の眼で虚空を見つめているが悲壮感はあまりなく、線が太くてまるでコミック絵のようだった。

一番気持ち悪かったのは、死んだ妾の女の骨を、うち据えている婆の姿。
死んでもなお恨めしい、やっぱり生きている人間が一番怖い…のかも。

応挙もあくまで「伝」であり、広重も何代か後の広重なので、コレクションは門外不出の…というほどの価値はないのだろうが、みなうまい。
幕末から近代までなので、西洋技法と日本画の折衷技法を取り入れているものもあり、面白かったです。



■鉄舟の墓

鉄舟さんの人柄が死んだ後も引き付けるかのように、座禅会など人気だそうで、この日も広い堂宇にずらりと座布団。
本像は葵の御紋を刻した観音様。

(由来)
幕末維新の剣客・政治家山岡鉄舟の開創で有名な全生庵の本尊であるこの観音像は、「葵観音」と呼ばれ興味深い伝来をもっています。この像はもともと日向国にあった大慈寺という寺院にあったもので、のちに京都の東福寺塔頭長慶寺に移され、さらに豊臣家に嫁いだ徳川家康の孫千姫によって江戸城に迎えられました。千姫が亡くなるとこの像は姫の侍女が開いた大塚の大慈寺に姫の遺品とともに安置され「葵観音」の名で知られました。しかし明治維新になってまもなく大慈寺は廃寺となったため、山岡鉄舟がこの「葵観音」を自邸にひきとり、のちに全生庵の本堂に迎えたということです。
この像は平安時代後期の作で、やわらかな線に典型的な定朝様の作風がうかがえます。また、くりぬかれた像の内側に漆塗が施されている点に特徴がありますが、このような作り方は多くの場合像内に品物を納入するためで、平安時代後期の上級貴族が願主になって作られる仏像にいくつかみられます。この像も同じく品物の納入を考えて作られたものと思われます。


徳川家のために散ったものの菩提寺なので、比較的最近の建立だし、観光というか宝物館などがあるわけではないが、人が集まるのも何かうなずける妙にさっぱりとした気持ちのいい寺でした。

それは、墓地に向かったときに感じた、まるで山の上にいるかのような錯覚を覚えるこの立地のお蔭とも言えなくはない。
木々に囲まれ爽やかな風が吹き抜け、墓というじめりけがない。
一瞬、家々の尾根が山の稜線に見えた。
広大な敷地の中、鉄舟の墓はすっくと立っている。

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↑威風堂々とした鉄舟の墓

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↑圓朝の墓。参道にある碑文は、井上馨の書によるもの

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↑娘義太夫・竹本住之助の墓


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