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6/29 戊辰戦争--菊と葵の500日 [★和の催し]

●国立公文書館…http://www.archives.go.jp/exhibition/index.html#ex_3005

6/30までの無料展覧会でした。
個人的には幕府側からの視点で幕末を見ているので、新撰組の斉藤一(変名山口次郎)が松本良順に診察にかかった際の書類とか、上野彰義隊が馬を調達する際の書面、五稜郭の見取り図などを興味深く拝見しました。

松平容保公が表題を揮毫した「白虎隊之図」。どんな思いで書いたのか、胸が締め付けられます。
仙台藩主に向けて新政府が「錦旗に発砲し大逆無道」「容保を討て」と下知した通達、大久保大和(近藤勇の変名)を「賊将」と書き 記していることなどをみると、毎度のことですが釈然としない感情が沸き起こりました。

薩長の一部過激攘夷派は、実際に外国と戦ってみて、「弱腰の幕府」と叩いていた自分たちを省みることはなかったの だろうか。幕府それなりの交渉術を持って対処したとは見なさなかったのだろうか。
西郷ら薩摩の倒幕派の中に、あれだけ徳川慶喜を推しておいて、いざ慶喜が将軍になったあとに 手のひらを返すように倒幕に動いたことを、慶喜を安易に操れると見込んだ安易な失策、恥だと考えた者はいなかったのだろうか。
藩主斉彬が死んだこともあるし、時代の情勢が読めないこともあったと思うが、結局はただの覇権争い、クーデターを起こしただけ。

では諸手をあげて幕府の肩を持つのか?と問われるとそうではないが、薩長ら倒幕派の志士たちを「時代を変えた英雄たち」という昨今の言い回しが気に入らない。
「江戸無血開城」ということは、山岡鉄舟や勝海舟が動かなければ、江戸を戦場にしようと思っていたわけですよ。
そのちょっと前には、長州は天皇を拉致して御所に火をつけようとしたわけですよ。
それを空々しく、バカの一つ覚えみたいに英雄と繰り返す(主に大河)ドラマにはほとほと辟易する。

坂本龍馬にしても、何でも一人で遂行したように描かれるが薩長土の閣僚に便利に使われた一つのコマに過ぎないと私の目には映る。
海援隊は倒幕派の武器売買のスケープゴート以上の存在ではないし、 後ろに後藤象二郎らがいなければ資金力はなかった。実情を知ったり見識が深くなるにつれ自分の考えを見直すことは悪いことではないが、どうも彼の振れ幅が激しくて、 ついていけない。何も考えていない思いつきの行動のように思える。
水戸藩の過激攘夷派もそうだが、行動する前に、自分らの見識不足を疑ってもっと情報収集しないのだろうか?

西郷に関しては、皆に請われるがまま行動したにすぎないと私は思います。 それだけ頼られるほどの器はあったのでしょうが、ただ器であるだけで、吉田松陰のような槍や大久保利道のような矛ではなかったと。
この人個人の欲というものが、あまりみえません。その点が、人を引きつける魅力なのでしょうか。
偏った方がドラマや映画は作りやすいのはわかります。しかし、もっと公平な論調を元にした歴史番組や時代劇が増えてもいいのではと思います。

資料の奥羽列藩同盟は外国から武器を調達したことがあること、薩摩が薬用として牛肉を屠る人員を回せと小荷駄方に通達したことなど、細々とした書面に、戦時中の生活の様子が窺えます。

それにしてもこの大混乱の中、これだけの書面を残した武士(日本人)の几帳面さには驚く。

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↑錦旗の御旗に惑わされた幕府軍。帝に恐れをなしたというより、賊軍という負けた後の汚名を着せられることばかり考えている弱腰さがみてとれる

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↑容保の死一等の~とあります

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↑「賊将大久保」との記述

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↑「高輪薩州の藩邸で西郷吉之助と面談」とあります

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新小岩の寺社めぐり~堀切菖蒲園 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

〈行程〉
●上品寺~天祖神社~堀切菖蒲園~北千住
菖蒲の咲き誇る今の時期に、せっかくなので新小岩から堀切菖蒲園まで散策してみました。
■上品寺
真言宗の寺で、江戸十六閻魔の一つを安置していることで有名です。
本尊の阿弥陀如来は運慶の作といわれています。檀家ではないと上がらせていただけないので、外から扉をあけて賽銭箱の後ろから本尊を眺めました。しかし金色に光り輝いていましたので、もしかしたら運慶作は別の場所に安置しているのかもしれません。
お守りや御朱印を頒布する窓口は設えてないので、正面左手の玄関を開けると対応してくれます。
変体仮名の「ゑんま」と書かれておりなんだか可愛らしい。
>>看板抜粋
上品寺の閻魔大王坐像
当寺は新義真言宗にして、八幡山来迎院という。
この閻魔堂に安置する閻魔大王坐像は、高さ206センチあり、かつて江戸十六閻魔の一つとして栄え、区内最大のものである。
閻魔大王は、地獄に住み18の将良と8万の獄卒を従え、死して地獄に落ちくる人間の生前の善悪を正し、罪あるものには、苦しみを与える冥王として信仰する人が多い。
当寺の閻魔は、江戸中期にもっとも盛んに信仰され、昭和47年に閻魔堂が新築され現在に至っている。
(葛飾区観光協会より)
境内には八幡神も祀られておりました。八幡神とは応神天皇のことを指し、近くにある天祖神社でも応神天皇を祀っているので武運を祈願することの多い土地柄だったということなのでしょうか。さすが関東。
ちなみに神社の鳥居の前で雀か何かの小さな卵が巣から落ちて割れていました。
供養しようと思ったらすぐに蟻がたかってしまい、これも自然の摂理とそのままにしてしまいました。

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■天祖神社
〈祭神〉大日女霎尊、天児屋根命、誉田別命
・大日女霎尊とは天照大神のことです。天祖と名のつく神社は、その名の通り天皇の祖という意味ですから、天照大神を祭神としています。天祖神社は神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)と称することもありますがいずれにしても天照大神を祀っています。
・天児屋根命(あめのこやねのみこと)は別名:春日権現、春日大明神とも。
春日権現と呼ぶときは神仏習合の神であり、不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音を本地仏とする。
誉田別命(ほむたわけのみこと)は第15代天皇の応神天のこと。「ほむたわけのみこと」は諱(いみな)といって、死後に呼ばれる名前のことですね。。
こちらの天祖神社の創建年代は不詳ですが、葛西清重という平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将が葛西御厨(かさいのみくりや)という荘園の関係から勧請したものといいます。
「関係から」ということが具体的に何を意味するのかよくわかりませんね。
この地で荘園制度を確立したのが葛西氏なので、村や荘園の鎮守としたというところでしょうか。

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■葛飾の名所・堀切菖蒲園
今年4月にリニューアル。「もやもやさまぁ~ず」という番組で、菖蒲の咲いてない時期にさまぁ~ずらが来て「なんにもねーなー!」とモヤモヤしてたイメージが強い場所(笑)
当たり前ですが、菖蒲の季節に来てみるとその美しさに圧倒!
約200種5000株の菖蒲が所狭しと咲き誇り、紫や白の花が目に涼しげです。
名前もとても風雅。「十二単衣」「星月夜」「御所の遊」、相撲部屋の親方の名前にもなっている「立田川」「武蔵川」などもあります。中でも「江戸古花」といって江戸時代の品種も咲かせています。
茄子のような藤紫、赤みがかった薄紅、白い花弁にうっすら紫色のぼかし、完全に白いものなど、数え切れないほどですが、品種は大きく分けて三つの系統に。
・江戸系…堀切で収集改良された品種の総称。集団で植える。
・肥後系…旗本の松平左金吾から藩主に渡り改良された。大ぶりで背が低く、鉢植え向き。
・伊勢系…詳細不明、松阪の吉井定五郎という武士が改良したといわれる。弁の垂れ方が優美。
菖蒲の発展に貢献したのは江戸時代後期の旗本・松平左金吾(1773-1856)。
伊予松山藩主松平家の一族に生まれ、大坂町奉行、大目付などを務め、60年に及ぶ品種改良で300種類を生み出したそう。自信の傑作は「宇宙」だそうです。
侍らしく露天で販売するなどはせず、噂を聞いて訪れる者は自宅に招き入れ、乞われれば株分けをしたそうですが、作出した品種改良方法は長らく門外不出で、晩年になって「花菖蒲培養録」に著します。
その左金吾から品種を譲り受けたのが、農家の小高伊左衛門。こちらは花を商品として江戸で販売。区の案内板では伊左衛門が左金吾に願って譲り受けたと書いてありました。
ま、そりゃそうですよね。侍と農民、2人の違う身分の好事家がどんな会話を交わしたのか、興味がありますね~。

左金吾は自らを菖翁と称しており、彼に作出された花は「菖翁花」と呼ばれます。
ここでは「蛇籠の波(じゃかごのなみ)」「霓裳羽衣(げいしょううい)」「王昭君(おうしょうくん)」「五湖の遊(ごこのあそび)」「立田川(たつたがわ)」「連城の璧(れんじょうのたま)」を見ることができました。
明治までは小高園・武蔵園・吉野園・堀切園・観花園がありましたが、戦後荒れ果てこの堀切園(堀切菖蒲園)のみが残ったとのことです。
今でも残っていれば、とても優雅な場所として凄く有名になっていただろうに、残念ですね…。
園内はそれほど広くありませんが裏千家のお茶もいただけるし、琴の演奏もありましたし、本当に優雅な一時を過ごせました。
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↑猿踊
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↑武蔵川
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↑肥後系の星月夜
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↑万里の響(江戸古花)
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↑水の光
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↑SNS登録で手ぬぐいを頂きました

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銀座のど真ん中、源吉兆庵で蛍鑑賞 [★和の催し]

■第15回源氏ボタル観賞会

開催期間:2018年6月4日(月)~6月10日(日)
鑑賞時間:18:00~21:00 ※最終日は20:00まで
入場料:無料 二階へ通じる階段に20人ほどの列。


●HP・・・http://www.kitchoan.co.jp/site/shops/ginza_honten.html

「宗家 源 吉兆庵 銀座本店」で蛍を見に行きました。
銀座のど真ん中で蛍が見られるなんてすごいですよね。その数600匹だそう!
スタッフに丁寧に誘導された二階の部屋は暗闇なので、はっきりとはわかりませんでしたが、10畳ほどの部屋の壁沿いに天井ほどもある巨大な虫かごが並んでいました。
初めはポツポツとしか見えなかったのですが目が慣れると群舞している様がわかります。その量に感動しました。

一際明るいもの、あまり明滅させないものなど、光り方もそれぞれ。 お尻の▼に光るのは雄、太いIの字に光るのは雌だそうです。 蛍が卵を生んだら、水草ごと山口県に運んで、孵化してから再び銀座に運んでくるそうです。

部屋を出ると柑橘系のジュースを頂けます。
こんなに至れり尽くせりでいいんでしょうか。
ありがたみを噛みしめつつ、帰りに蛍にちなんだ水菓子【銀座の蛍】を買いました。

戦前はそこここの小川で蛍が見られたという銀座。今もそういう街並みだったら、さらに日本の観光地としての価値は高まっただろうになぁ。と思うと、つくづく戦争が憎いです。

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