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東本願寺境内に幻の東照宮 [歴史あれこれ]

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20171126000069

京都新聞から飛び込んできました、気になる話題。
なんと幕末の2年間だけ、東本願寺の境内に「東照宮」が祀られていたというのである。
新選組が屯所にしていたのは西本願寺。
そちらはむしろ勤王派で薩長側につながりがあったので、新選組が監視の目も光らせるため屯所を構えたという経緯があったはず。
ということは東本願寺派は佐幕派だったということだろうか。
と思い、HPの概要を読むと、幕府から寺地を与えられたようですね。

●東本願寺と徳川幕府
http://www.otani.ac.jp/kyo_kikan/museum/nab3mq000005d8mf.html

こちらで展覧会が行われているようだ。もうすぐ終わってしまうが、非常に興味深い。

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運慶展@上野国立博物館 [★和の催し]

●HP・・・http://unkei2017.jp/

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先週金曜日の夜@上野。
いやー、金曜日夜は意外と空いていたはずですが、やはり終了期間が迫ってるからか、「待ち時間30分」のプラカード (ですが、15分~20分くらいで入れました)。
絵師では俵屋宗達や尾形光琳だのの琳派、狩野永徳などの狩野派、浮世絵師では葛飾北斎や喜多川歌麿、写楽、歌川国芳などなど、たくさんの名前を挙げることができますが、一般には仏師といえば快慶・運慶ぐらいしかパッと出てこない。作庭師といえば小堀遠州、みたいな(笑)

いやー、やっぱり痺れますね「四天王」。
運慶の父、康慶作の四天王は目がギョロっと出てて大迫力! 釈迦の身長は480センチ、その半分が立像の基本の高さなのですが、四天王は前者の高さかな?

仏教界の中では天部衆と言って、ヒンドゥー教から仏法を守護する存在として取り込んだ神々ですから、位は低いんです。
でもこの躍動感といったら。
叱られたい、怒られたい、守られたい!!

知人と話してたのですが、四天王の躍動感と迫力、体の動かし方は歌舞伎の「見得」に影響を与えているに違いない、と。特に「増長天」は、「暫」の舞台にそのポーズのまま出てもおかしくない!

四天王をまとめる長は「多聞天」。仏舎利を持っているので、分かりやすい。
多聞天は単独になると毘沙門天と名を変えます。妻は吉祥天、二人の子供は善膩師(ぜんにし)童子。
この三体が後半の<目録30>番で勢揃い。

鑑賞していて気がついたのですが、結構、仏像の決まりごとから外れた様式の仏像が多い。
魂を迎えに来てくれる阿弥陀如来は来迎印を結んでないし、その脇侍の観音菩薩は頭に阿弥陀如来を頂いてないし、同じ脇侍の観音菩薩そっくりの勢至菩薩は目印となる水瓶(すいびょう)を頭に頂いてない。
頭部だけ見つかった阿弥陀如来には、白鼇がない(剥落?)
<目録3>の康慶作の地蔵菩薩は座っているし、<目録4>の運慶作の大日如来も半跏踏下座で立像じゃないのが面白い。

不動明王を守護し付き従う童子が勢揃い。八童子のうち、二体が運慶作ではないので、六童子のみ上野にきているとのこと。矜羯羅童子は、力士の照ノ富士にどことなく似ている(笑)。

運慶が脂がのっている時期の作品群だということで、どの仏像も目が爛々としていたり、潤んでいるように見えたりと、まるで生きているかのよう。

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照ノ富士・・・http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile/3321/


不動明王は、「怒りをもって悟りに導く大日如来」という位置付けで、大日如来の化身なので、よくみるとむっちりした体型なんですよね。天部衆のように、筋肉隆々とはしてないんです。
そういった基本的なことが、はっきりと再認識できた展覧会でもありました。

一筋の光明を表したような、開いているか開いていないかわからない目つきの如来、たおやかさも持ち合わせつつ決め細やかな桾(くん)のひだ模様が美しい菩薩。
それらにもうっとりと引き込まれますが、やっぱり見所は四天王に決まり!ですね。
鎌倉武士に「武士とはこうあるべき」と思わせてしまったという運慶の毘沙門天も見事です。

それまで個人名が前に出てくることはなかった派閥としての仏師集団から、アーティストとして個性を発揮してもいいんだ、という路線を提示してみせた慶派たち。
仏像界の歴史の転換期、これは本当に見てよかった展覧会でした。

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↑↓国立博物館前の公園に展示されていた巨大美術群
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御茶ノ水・史跡めぐり [◇江戸寺社・史跡めぐり]

●行程…小栗上野介生家あと~佐々木~雁木坂~正教会

■小栗上野介生家あと

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小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
日米修好通商条約批准のため米艦で渡米した一人です。帰国後は多くの奉行を務め、フランス公使レオン・ロッシュに依頼して洋式軍隊を整備したり、横須賀製鉄所の建設などを行いました。そのため司馬遼太郎から「明治近代化の父」と評されました。
多数の功績の中で、やはり渡米の際、使節団77名率いて監察という役割を全うして、毅然とした態度でアメリカとの交渉に臨んだことが、一番評価されていると思います。
彼は幕末、薩長に恭順した徳川慶喜に対し主戦派でしたので、慶応4年(1868年)に罷免されてしまいます。
その後領地である上野国群馬郡権田村に隠遁していましたが、同年薩長軍に捕縛され、武装解除していたにも関わらず因縁をつけられ、斬首されてしまいました。
彼が明治時代長く生きていれば、そして彼が立てた作戦通り薩長と開戦していれば、今の歴史は大きく変わっていたと言われています。
■大久保彦左衛門屋敷跡
杏雲堂病院の前に「天下のご意見番」と言われた大久保彦左衛門の屋敷跡の石碑があります。正式名は「大久保忠教」で、彦左衛門は通称。時代劇では家康から「ひこざ、ひこざ」と呼ばれている記憶があります。
彼は16歳の初陣で戦功をあげ、徳川家康に仕え旗本となりました。その後、再三勧められるも大名になることを固辞し、諮問役の「天下の御意見番」として徳川三代に仕えます。
元々三河の出身、隠居後の「三河物語」の執筆者としても知られています。
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■ニコライ堂
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