So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

◇江戸寺社・史跡めぐり ブログトップ
前の3件 | -

新小岩の寺社めぐり~堀切菖蒲園 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

〈行程〉
●上品寺~天祖神社~堀切菖蒲園~北千住
菖蒲の咲き誇る今の時期に、せっかくなので新小岩から堀切菖蒲園まで散策してみました。
■上品寺
真言宗の寺で、江戸十六閻魔の一つを安置していることで有名です。
本尊の阿弥陀如来は運慶の作といわれています。檀家ではないと上がらせていただけないので、外から扉をあけて賽銭箱の後ろから本尊を眺めました。しかし金色に光り輝いていましたので、もしかしたら運慶作は別の場所に安置しているのかもしれません。
お守りや御朱印を頒布する窓口は設えてないので、正面左手の玄関を開けると対応してくれます。
変体仮名の「ゑんま」と書かれておりなんだか可愛らしい。
>>看板抜粋
上品寺の閻魔大王坐像
当寺は新義真言宗にして、八幡山来迎院という。
この閻魔堂に安置する閻魔大王坐像は、高さ206センチあり、かつて江戸十六閻魔の一つとして栄え、区内最大のものである。
閻魔大王は、地獄に住み18の将良と8万の獄卒を従え、死して地獄に落ちくる人間の生前の善悪を正し、罪あるものには、苦しみを与える冥王として信仰する人が多い。
当寺の閻魔は、江戸中期にもっとも盛んに信仰され、昭和47年に閻魔堂が新築され現在に至っている。
(葛飾区観光協会より)
境内には八幡神も祀られておりました。八幡神とは応神天皇のことを指し、近くにある天祖神社でも応神天皇を祀っているので武運を祈願することの多い土地柄だったということなのでしょうか。さすが関東。
ちなみに神社の鳥居の前で雀か何かの小さな卵が巣から落ちて割れていました。
供養しようと思ったらすぐに蟻がたかってしまい、これも自然の摂理とそのままにしてしまいました。

2018-06-06T17:05:03.jpg

2018-06-06T17:05:03.jpg2018-06-06T17:05:03.jpg

2018-06-06T17:05:03.jpg
■天祖神社
〈祭神〉大日女霎尊、天児屋根命、誉田別命
・大日女霎尊とは天照大神のことです。天祖と名のつく神社は、その名の通り天皇の祖という意味ですから、天照大神を祭神としています。天祖神社は神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)と称することもありますがいずれにしても天照大神を祀っています。
・天児屋根命(あめのこやねのみこと)は別名:春日権現、春日大明神とも。
春日権現と呼ぶときは神仏習合の神であり、不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音を本地仏とする。
誉田別命(ほむたわけのみこと)は第15代天皇の応神天のこと。「ほむたわけのみこと」は諱(いみな)といって、死後に呼ばれる名前のことですね。。
こちらの天祖神社の創建年代は不詳ですが、葛西清重という平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将が葛西御厨(かさいのみくりや)という荘園の関係から勧請したものといいます。
「関係から」ということが具体的に何を意味するのかよくわかりませんね。
この地で荘園制度を確立したのが葛西氏なので、村や荘園の鎮守としたというところでしょうか。

2018-06-06T17:05:03.jpg

2018-06-06T17:05:03.jpg
■葛飾の名所・堀切菖蒲園
今年4月にリニューアル。「もやもやさまぁ~ず」という番組で、菖蒲の咲いてない時期にさまぁ~ずらが来て「なんにもねーなー!」とモヤモヤしてたイメージが強い場所(笑)
当たり前ですが、菖蒲の季節に来てみるとその美しさに圧倒!
約200種5000株の菖蒲が所狭しと咲き誇り、紫や白の花が目に涼しげです。
名前もとても風雅。「十二単衣」「星月夜」「御所の遊」、相撲部屋の親方の名前にもなっている「立田川」「武蔵川」などもあります。中でも「江戸古花」といって江戸時代の品種も咲かせています。
茄子のような藤紫、赤みがかった薄紅、白い花弁にうっすら紫色のぼかし、完全に白いものなど、数え切れないほどですが、品種は大きく分けて三つの系統に。
・江戸系…堀切で収集改良された品種の総称。集団で植える。
・肥後系…旗本の松平左金吾から藩主に渡り改良された。大ぶりで背が低く、鉢植え向き。
・伊勢系…詳細不明、松阪の吉井定五郎という武士が改良したといわれる。弁の垂れ方が優美。
菖蒲の発展に貢献したのは江戸時代後期の旗本・松平左金吾(1773-1856)。
伊予松山藩主松平家の一族に生まれ、大坂町奉行、大目付などを務め、60年に及ぶ品種改良で300種類を生み出したそう。自信の傑作は「宇宙」だそうです。
侍らしく露天で販売するなどはせず、噂を聞いて訪れる者は自宅に招き入れ、乞われれば株分けをしたそうですが、作出した品種改良方法は長らく門外不出で、晩年になって「花菖蒲培養録」に著します。
その左金吾から品種を譲り受けたのが、農家の小高伊左衛門。こちらは花を商品として江戸で販売。区の案内板では伊左衛門が左金吾に願って譲り受けたと書いてありました。
ま、そりゃそうですよね。侍と農民、2人の違う身分の好事家がどんな会話を交わしたのか、興味がありますね~。

左金吾は自らを菖翁と称しており、彼に作出された花は「菖翁花」と呼ばれます。
ここでは「蛇籠の波(じゃかごのなみ)」「霓裳羽衣(げいしょううい)」「王昭君(おうしょうくん)」「五湖の遊(ごこのあそび)」「立田川(たつたがわ)」「連城の璧(れんじょうのたま)」を見ることができました。
明治までは小高園・武蔵園・吉野園・堀切園・観花園がありましたが、戦後荒れ果てこの堀切園(堀切菖蒲園)のみが残ったとのことです。
今でも残っていれば、とても優雅な場所として凄く有名になっていただろうに、残念ですね…。
園内はそれほど広くありませんが裏千家のお茶もいただけるし、琴の演奏もありましたし、本当に優雅な一時を過ごせました。
2018-06-06T17:05:03.jpg

2018-06-06T17:27:29.jpg

2018-06-06T17:27:29.jpg

P_20180603_130337猿踊.jpg
↑猿踊
2018-06-06T17:27:29.jpg
↑武蔵川
2018-06-06T17:27:29.jpg
↑肥後系の星月夜
2018-06-06T17:27:29.jpg
↑万里の響(江戸古花)
2018-06-06T17:27:29.jpg2018-06-06T17:27:29.jpg
↑水の光
2018-06-06T17:27:29.jpg
↑SNS登録で手ぬぐいを頂きました

2018-06-06T17:27:29.jpg

2018-06-06T17:27:29.jpg

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

御茶ノ水・史跡めぐり [◇江戸寺社・史跡めぐり]

●行程…小栗上野介生家あと~佐々木~雁木坂~正教会

■小栗上野介生家あと

2017-11-13T14:35:48.jpg

2017-11-13T14:35:48.jpg

小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
日米修好通商条約批准のため米艦で渡米した一人です。帰国後は多くの奉行を務め、フランス公使レオン・ロッシュに依頼して洋式軍隊を整備したり、横須賀製鉄所の建設などを行いました。そのため司馬遼太郎から「明治近代化の父」と評されました。
多数の功績の中で、やはり渡米の際、使節団77名率いて監察という役割を全うして、毅然とした態度でアメリカとの交渉に臨んだことが、一番評価されていると思います。
彼は幕末、薩長に恭順した徳川慶喜に対し主戦派でしたので、慶応4年(1868年)に罷免されてしまいます。
その後領地である上野国群馬郡権田村に隠遁していましたが、同年薩長軍に捕縛され、武装解除していたにも関わらず因縁をつけられ、斬首されてしまいました。
彼が明治時代長く生きていれば、そして彼が立てた作戦通り薩長と開戦していれば、今の歴史は大きく変わっていたと言われています。
■大久保彦左衛門屋敷跡
杏雲堂病院の前に「天下のご意見番」と言われた大久保彦左衛門の屋敷跡の石碑があります。正式名は「大久保忠教」で、彦左衛門は通称。時代劇では家康から「ひこざ、ひこざ」と呼ばれている記憶があります。
彼は16歳の初陣で戦功をあげ、徳川家康に仕え旗本となりました。その後、再三勧められるも大名になることを固辞し、諮問役の「天下の御意見番」として徳川三代に仕えます。
元々三河の出身、隠居後の「三河物語」の執筆者としても知られています。
2017-11-13T14:35:48.jpg

2017-11-13T14:35:48.jpg

2017-11-13T14:35:48.jpg

2017-11-13T14:35:48.jpg

2017-11-13T14:35:48.jpg

■ニコライ堂
2017-11-13T14:35:48.jpg2017-11-13T14:35:48.jpg2017-11-13T14:35:48.jpg2017-11-13T14:35:48.jpg2017-11-13T14:35:48.jpg


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

人形町・寺社めぐり [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■水天宮

高天原に最初に出現した「天之御中主神」を主祭神に、実は安徳天皇安徳天皇の母「平徳子(建礼門院)」、一緒に入水した平清盛の正妻「二位の尼」の三柱も祀られています。
壇ノ浦の痛ましい悲劇として、また、海に沈んだ三種の神器の謎もあわせて、安徳天皇のことは心に焼き付いています。

安産守りとして有名ですが子供を持つ予定はないので、こちらにくると「天地創造の神よ、日本をお守りください」という仰々しい願いを唱えております(笑)。天之御中主神は天地創造、水を司る神ですからね。

しかし建て直された後のこの近代的な建物はちょっと好きになれない。
近代化してしまった神社としては、飯田橋の赤城神社とこちらの水天宮、虎ノ門の金比羅さんが残念ですね。
山王日枝神社くらいの樹木に囲まれていて欲しいです。
狛犬が睨みをきかしているのですが、視線の先は壁。これでは門番の役割が全うできないですね。

P1190205.jpg

P1190207.jpg

P1190206.jpg

2017-10-15T16:52:44.jpg

■茶の木神社

ビルの一画にある小さなお社。ビルの敷地内の端っこにきれいに収まっている。
「下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷」にあったお社だと書いてありました。
街の区画は江戸時代をそのまま残していることが多いから、ここが端っこだったのかしら・・・と思って手持ちの古地図(嘉永)と現在の場所を重ね合わせると、どうも酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷になってしまう。東へ3ブロック位ずれているんですよね。

当時の地図の縮尺がいい加減だからなのか、社を茶の木ごと移動させたのかどちかなのでしょうか。しかし小さいとはいえ、周囲の自生している木には年月を経た厳かさを感じるので、周りの植え込みは当時の茶の木だと思いたい。

2017-09-26T09:31:43.jpg

>>由来看板抜粋
「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。昔この土地は徳川時代約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
社の周囲にめぐらされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、茶と茶の木の緑が見事であたっと伝えられている。その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰と言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年1回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。

P1190216.jpg

P1190217.jpg

■松島神社

こちらもビルの一画に、まるで心太(ところてん)のように押し込まれたように建っております。
創建年代は不詳、なんと祀られているのは14柱!これほど多くの神が祀られているのは珍しいのではないでしょうか。神田明神など、末社として境内にたくさん社がある例はありますが並列に祀られているのは珍しい。
こちら、どうしてこういうことになったかというと詳しくはこちら↓

>>由来書抜粋
昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安産を得たと伝えられる。
~天正13年(1585)2月13日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。
~~正徳3年(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時近辺を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められてそのまま住まいを構え、町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。

掲げられた由緒書を元に計算すると、柴田家の祖先が移り住んでから128年後に神が増えていったことになりますね。
江戸の町は男性の割合が多かった理由の一つに、こういった全国から集まった大工がそのまま居着いてしまったというケースがあります。その裏付けとなる証拠が、この神社の存在だと思うと感慨深いものがありますね。
こちらは七福神の一つでもありますので、御朱印は通常と七福神の二種類ありました。さすがに14種類ではないんですね。

P1190218.jpg
P1190219.jpg

2017-10-15T16:52:44.jpg

■人形町の仕掛け時計
なかに人形が入っています。12:00~19:00の間、一時間ごとにからくり人形が動きます。

P1190225.jpg

■とうふの双葉


「とうふ双葉」の甘酒、200円。今時珍しく、孫をおんぶしてあやしている女将さんが、ペットボトルから紙コップにたぷんと注ぐ。この昭和っぽさがいいですね~。
甘酒は江戸では夏の飲み物。栄養補給にぴったりです。結構舌に残る甘さなので、紙コップ程度の量でも満足感があります。甘酒ソフトクリームはほのかに酒の香り。この日は珍しく暑い日でしたので、ちょうどよかったです。

P1190227.jpgP1190228.jpgP1190229.jpg

■荒汐部屋

親方猫「モル」で有名になった相撲部屋です。朝稽古は外に面した大きなガラス窓ごしに見学することができます。
夕刻訪れたので、もちろん稽古場は暗く閉ざされ、モルにも出会えませんでしたが、上階から垂れ下がる昆布のような稽古廻しが見られて面白かったです。しばらくすると呼び出しさんが一人戻ってきました。

P1190238.jpg

■清正公寺

荒汐部屋の目と鼻の先、浜町公園の脇にひっそりと、時代に取り残されたように鎮座しています。
辛うじて山門(らしきもの)が残されており、ほんの少しだけ往時を偲ぶことができます。
熊本本妙寺の別院です。熊本本妙寺は日蓮宗六条門院であり、門流とは「妙法蓮華経(法華経)を正法」とする日蓮門下の分派の呼称です。

始祖の日静が京都六条に移転させた本國寺を祖山とするので「六条門流」と呼ぶそうです。
十界本尊・開運勝利高祖日蓮大菩薩尊像・清正公大神祇尊像の三体を安置しているとのことですが、本堂は公開されていませんでした。

>>縁起(看板抜粋)
文久元年(1861)、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、加藤清正公を祀り、明治維新後には一時加藤神社と称した。明治18年仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺に委託、本妙寺別院となす。

維新後に加藤神社と称したのは、おそらく廃仏毀釈から逃れるためでしょう。 地元民の請願あってのことだと思いますが、もし寺のままだったとしても、維新を主導した薩摩の士族にとっても地元の英雄ですので、何とか残されたのではないでしょうか。 堂宇は閉ざされ、住職もいらっしゃらないようです。
すぐ隣にある子供の遊具や広場とのミスマッチが何ともいえない切なさを醸し出しています。

P1190242.jpg

P1190243.jpg

P1190245.jpg

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の3件 | - ◇江戸寺社・史跡めぐり ブログトップ