So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

縄文~1万年の美の鼓動 [★和の催し]

2018-08-08T04:09:10.jpg

2018-08-08T04:09:10.jpg

●HP…http://jomon-kodo.jp/


縄文時代といっても、前期から晩期の四段階に分かれ、紀元前131世紀頃から紀元前4世紀頃までの、12700年ぐらいの幅広い時代を指します。
たかだか150年前には侍が刀を振り回していたことを想像すると、現代までの技術進歩が早すぎて、私には一万年という年数は計り知れない長さに感じます。

その間、文明や科学の発展はあったにちがいないと思うのですが、実際はどうだったのでしょう。残された土器などからは、美への意識の変遷しか窺いしることしかできません。ギリシャやローマのように、壺などに描かれた図柄からある程度の生活レベルが推し量れるような写実性は全くなく、予想を遙かに超えた意匠がそこにはありました。

●想像を遙かに超えた造形


縄文のデザインは大きくわけて2つあると思いました。 国宝「土偶 仮面の女神」に代表される逆三角形の顔と、「斜光器土偶」と呼ばれる宇宙人(もしくはSTAR WARSのマスター・ヨーダかマズ・カナタ)のような顔。

2018-08-08T14:08:52.JPG

2018-08-08T14:08:52.png

2018-08-08T14:08:52.jpg


後者はエスキモーがかけるサングラスをかけた顔であるとか、死者の目をつぶった顔だとか推測されていると解説されていたが、前者には全く説明がない。なぜ逆三角形なのか。もし縄文人がアイヌに代表されるような特徴を持っているとしたら、顔の輪郭は四角くしないだろうか。それとも、人物像はなるべく本物に近く写実的にするのが当たり前だろう、という現代人の概念で推し量ることが間違いなのか。

平べったく上向いた女神のお面は、太陽の光や月の光をよく反射しそう。
光のなか、祭壇の上で神が憑依した神官が霊を弔う…などと勝手な妄想をする。

おしなべて顔の造形はぞんざいで、上から張り付けた棒のような眉や目、たらこのような唇をしており、乳房がないと女性なのか見分けがつかない像もある。というか、土偶はほぼ女性像というのが定説のようだ。
顎と臍の周りに湿疹のような小さな斑点が密集している像は、てっきり男性の顎髭や臍毛を表しているのかと思っていたら、それも女性像らしい。しかも臍毛と思っていた部分は女性器だそう。
本当かな?文字がない以上推測の域を出ないわけで、学説を鵜呑みにするのもどうかとわたしは思う。

十以上もの火焔式土器の陳列は圧巻。火焔式土器が、こんなにも存在することに驚いた。見えない炎の揺らめきが室内を圧迫して、圧倒される。 生命力、自然への畏れとそれを取り込みたいと思う人間の欲望を感じる。
一見無秩序に思われる縄文の紋様は、いやしかし意外なほどシンメトリー。 自立しない土器は底から4/1ほど焦げが多い。竈にスポッとはめ込んで使われていたのだろうか。


■縄文人のルーツ

縄文人、と一括りにされた人々は、東北や関東に集中している。 「魚への憧れ」「魚の図案は珍しい」などの解説版がちらほらあることから、縄文人は専ら内陸部にいたようである。もちろん、大森貝塚のように沿岸部に暮らす人々も確かにいただろう(ちなみに大森貝塚は気候変動で気温が下がった縄文晩期だそう)。

弥生時代から先は西での文化が興隆を極めていく。 私はしばらく、日本武尊が東征した伝説に呼応するように、縄文人は弥生人に北へ北へと追いやられ北海道にいるアイヌだけになった…などという考えに捕らわれていたが、近年では縄文人のDNAは日本人にしっかりと組み込まれており、渡来系弥生人のDNAと「融和」しているとの研究がある。

https://m.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html

朝鮮半島経由の渡来系は稲作をもたらし、バイカル湖系の縄文人は積極的に稲作文化を取り入れ、いつしか血も混じり合い…ということなのだろうか。日本には人間の祖である三つの人種が来ていた、というのも面白い。


全く根拠のない思い付きだが、斜光器土偶をしみじみと眺めていると、かつてローマ帝国やゲルマン人を脅かしたモンゴルからやってきたフン族を思い出した。太い眉、細長い目、ヘルメットのようなおかっぱ、背は小さく肩幅はあり、ずんぐりむっくりとしていたという。彼らも縄文系のDNAなのだろうか。

ナマコ唇のぐるりに沢山の穿孔がある土偶もあり、それは何を表しているのだろう。髭か入れ墨なのだろうか。実際、幕末明治までアイヌには口の周りに入れ墨をいれる風習があったから、関係しているように思う。


2018-08-08T04:09:10.jpg


勾玉の形に神聖さを感じたり、結い上げた髪に挿す簪、笄(こうがい)などの装飾品の美意識は、なんとなく日本人の根底に刷り込まれた一種の形だと思う。
ハート型のお面…宮中の女性の髪型に、正面から見るとハート型にしか見えないものがあるが、それを考えると、あれは髪型のアウトラインを取ったお面なのかもしれない。

アフリカで大きな輪を唇にはめた部族がいたが、縄文人も同じように大きな輪をはじめとする耳たぶにはめていたことは初めて知った。
そして、保管された乳児や幼児の足形や、家に飾られた男根の巨大な石像、トーテムポールのような彫像…イルカの霊を弔う意匠が施されているものなど…すべて縄文への目を開かせてくれる品々だった。

私の勉強が足りないだけかもしれないが、縄文時代の「生活」はわかってきても、「社会生活」があまり伝わってこない。一万年もあれば、群れのリーダーが現れ、生活向上に関する技術が子々孫々伝えられ、そのうち突然変異のような才能ある者が出現し、他部族との衝突などをはらむ「政治」のような営みが生まれると思うのだが。
森深く自然豊かな日本の風土が、縄文の痕跡を隠してしまったのだろうか。
今までの縄文の概念を揺さぶる、ロマンを掻き立てられる必見の展覧会だった。縄文への興味が一気に高まった。


■上野藪そば


初訪問。縄文展で疲れた足を伸ばしながら、からからに乾いた喉を取りあえずキンキンに冷えた「みぞれ酒」で潤す。

これが甘くて美味!口直しに味噌と塩が供されて、どちらも酒に合います。特に塩は舌に載せると甘さが際だちますね。 このお酒、常温だと非常に甘いのだろう。

つまみには茄子のお浸し、獅子唐も添えて。 メインには季節の素麺と散々迷いましたが、やっぱり基本のせいろを頼みました。おそばは細いながらも角がしっかりあるタイプで、つけ汁は濃い目。
そばの下の部分をほんの少しだけくぐらせます。 そば湯は木製の湯桶ではなく赤茶けた金属製の小さなやかんで、とても可愛らしい。そば湯はさらさらとしていて非常に飲みやすかった。
名店そば屋の例に漏れず、回転が早く混雑しているにも関わらず、居心地がいい。


2018-08-08T04:09:10.jpg


2018-08-08T04:09:10.jpg


2018-08-08T04:09:10.jpg


2018-08-08T04:09:10.jpg


■上野パルコyaの「みはし」


地下一階の上野が好きコーナーや、四階の濱紋様やがま口の綾小路など、和雑貨が充実していて楽しい。

色々物色した後は、甘味屋「みはし」で〆。
「クリーム白玉金時」 で素朴な豆とソフトクリームの組み合わせを楽しむ。 弾力のある白玉をクリームの甘いベールで包むようにほおばる。たまりませんね。)

2018-08-08T04:09:10.jpg

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

神田めぐり~明治大学博物館・神田明神・妻恋神社・折り紙会館 [◇江戸寺社・史跡めぐり]

・コース…明治大学博物館~神田明神→妻恋神社→折り紙会館

何ヶ月も前ですが、東京医科歯科大学の帰り、平日半休をとって神田をぶらり。
行こうと思っていたさまざまな場所に立ち寄ることが出来ました。

■明治大学博物館

念願の・・・っていうのもおかしな話だが、復元された「アイアン・メイデン」を拝みに。
刑事罰の歴史の奥には急に古代遺跡のコーナー。この博物館、すごく偏ってるが面白いぞ。


アイアン・メイデンはギロチンとセットで置いてありました。

ギロチンは確かルイ16世が、代々処刑人を勤める一家のサンマンに「どうすれば苦しめずに首を落とせるのか」という助言を請われて「刃を斜めにすれば良い」といったそうな。
錠前作りが趣味だったから金属の性質が熟知していたというのは短絡的だけど、ルイ16世は博識だったそうですよね。その本人がギロチンで処刑されたというのも皮肉なものです。
日本の抱き石も相当酷く、骨が砕けて拷問から解放されても二度と歩けなくなってしまう者も多かったとか。

縄文時代の発掘品も充実。古代遺跡を見るにつけ、マクロ的視点では著しく見解が偏ってしまうのだなとつくづく感じた。古代遺跡を考察するときは、発掘現場も含めて推理しなければならないのだ。
自然発生的に破砕された岩石と、穿たれた鏃がどう違うかを見分けるには、例えば出土した状態がどの地層にどの傾きで刺さっていたのか、周囲には同じ岩石がなくその岩石だけ孤立していたのか、などを考えなければならないし、ヒトの動きも視野に入れなければならない。
どこから持ち込まれたのか、近くに貝塚など集落の痕跡があるかなどなどだ。そういった面白さを気がつかせてくれた。

関係ないが、機関誌「museum eyes」のあるコーナーの一文、「正しさではヒトは動かない。人をして、おのずと次の一歩を踏み出させるのは、正しさではない。美しさである。あるいは心地よさ。」という文面にも惹かれた。
芸術でも機械でも古美術の分野でも、共通する真理ですよね。

P_20180423_120234.jpg
P_20180423_120243.jpg
P_20180423_122608.jpg
↑未だに用途が解明されていない道具である銅鐸

P_20180423_122836.jpg
↑墳墓から出土した品々。右上の平たい土偶が可愛い

P_20180423_123232.jpg
↑各時代の御触書や刑法書物も充実

P_20180423_123733.jpg
↑新しく発見された西郷吉之助の肖像

「遠藤家旧店舗・住宅主屋


P_20180427_150353.jpg

カフェ井政として営業している「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。
昭和2(1927)年に日本橋川沿いに材木商の遠藤達蔵氏によって建造された古民家で、江戸時代の商家の建築様式をもち、屋久杉や秋田杉などの良木を使い、「江戸黒」と呼ばれた黒漆喰の外壁や新しい銅板などを取り入れているそうな。今回は閉まっていました。カフェは16時までなので再訪したい。


■神田明神

久しぶりに歩きに来ました。平日の夕方は20人ほどの人影。
まあ神社というのはお参りしたあと、だらだらといるものでもないから、案外に人の出入りは多い。
そこに神馬の「あかりちゃん」がいました。とっても小さくて、土と同化して一瞬わからなかったくらい。
手の甲を柵にあてるとクンクン、と匂いを嗅ぎに来てくれました。一頭では寂しかろうにな。
御朱印は飾り気のないすっきりとしたデザイン。

P_20180427_150749.jpg

P_20180427_151442.jpg
↑ハートの神紋

P_20180427_151745.jpg
↑子どもの時に乗っていた木馬と同じくらいの大きさ

P_20180427_154011.jpg

■妻恋神社

日本武尊が東征に向かっていたとき、船が暴風雨にあい難破しそうになった。
そのとき、妃の弟橘媛命が夫の身代わりとして海に入り海を鎮めたといいます。
日本武尊は無事に房総に上陸することができ、東征平定を成し遂げた後、妻を恋しく思いこちらに社を建てたのだとか。
妻恋なんてストレートに、なんていじましい名前の神社ではないですか!

それもあって縁結びの神社として人気のようですが、平日は社務所が開いていませんでした。
若い人向けの「恋」「愛」といったお守りもありますが、五角形の絵馬が願掛けの伝統あるもののようです。
昔は境内ももっと広く賑わっていたそうです。神話に縁のある神社はいつまでも残っていて欲しいですね。

P_20180427_153101.jpg

P_20180427_152900.jpg
↑右下の絵馬が人気

■折り紙会館

一階は撮影自由、受付にも人はいませんでした。壁に飾られた、鶴で象られた翼がフォトスポット。
折り紙で作られた芸者の立体的な壁掛け、技巧を凝らした鞠。
制作に何ヶ月もかかったであろう鳳凰など、折り紙の可能性を感じました。
また、なぜか相撲図案の枕屏風のシリーズが置いてあり、欲しくなりました。

三階にはありとあらゆるメーカーの折り紙と、和紙が販売。
今後折り紙アクセサリーなどで図案に困ったときは役に立ちそう。

P_20180427_175109.jpg
P_20180427_173433.jpg
↑一つ一つが折り鶴でできている天使の羽

P_20180427_174823.jpg

P_20180427_174936.jpg
P_20180427_175017.jpg

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

6/29 戊辰戦争--菊と葵の500日 [★和の催し]

●国立公文書館…http://www.archives.go.jp/exhibition/index.html#ex_3005

6/30までの無料展覧会でした。
個人的には幕府側からの視点で幕末を見ているので、新撰組の斉藤一(変名山口次郎)が松本良順に診察にかかった際の書類とか、上野彰義隊が馬を調達する際の書面、五稜郭の見取り図などを興味深く拝見しました。

松平容保公が表題を揮毫した「白虎隊之図」。どんな思いで書いたのか、胸が締め付けられます。
仙台藩主に向けて新政府が「錦旗に発砲し大逆無道」「容保を討て」と下知した通達、大久保大和(近藤勇の変名)を「賊将」と書き 記していることなどをみると、毎度のことですが釈然としない感情が沸き起こりました。

薩長の一部過激攘夷派は、実際に外国と戦ってみて、「弱腰の幕府」と叩いていた自分たちを省みることはなかったの だろうか。幕府それなりの交渉術を持って対処したとは見なさなかったのだろうか。
西郷ら薩摩の倒幕派の中に、あれだけ徳川慶喜を推しておいて、いざ慶喜が将軍になったあとに 手のひらを返すように倒幕に動いたことを、慶喜を安易に操れると見込んだ安易な失策、恥だと考えた者はいなかったのだろうか。
藩主斉彬が死んだこともあるし、時代の情勢が読めないこともあったと思うが、結局はただの覇権争い、クーデターを起こしただけ。

では諸手をあげて幕府の肩を持つのか?と問われるとそうではないが、薩長ら倒幕派の志士たちを「時代を変えた英雄たち」という昨今の言い回しが気に入らない。
「江戸無血開城」ということは、山岡鉄舟や勝海舟が動かなければ、江戸を戦場にしようと思っていたわけですよ。
そのちょっと前には、長州は天皇を拉致して御所に火をつけようとしたわけですよ。
それを空々しく、バカの一つ覚えみたいに英雄と繰り返す(主に大河)ドラマにはほとほと辟易する。

坂本龍馬にしても、何でも一人で遂行したように描かれるが薩長土の閣僚に便利に使われた一つのコマに過ぎないと私の目には映る。
海援隊は倒幕派の武器売買のスケープゴート以上の存在ではないし、 後ろに後藤象二郎らがいなければ資金力はなかった。実情を知ったり見識が深くなるにつれ自分の考えを見直すことは悪いことではないが、どうも彼の振れ幅が激しくて、 ついていけない。何も考えていない思いつきの行動のように思える。
水戸藩の過激攘夷派もそうだが、行動する前に、自分らの見識不足を疑ってもっと情報収集しないのだろうか?

西郷に関しては、皆に請われるがまま行動したにすぎないと私は思います。 それだけ頼られるほどの器はあったのでしょうが、ただ器であるだけで、吉田松陰のような槍や大久保利道のような矛ではなかったと。
この人個人の欲というものが、あまりみえません。その点が、人を引きつける魅力なのでしょうか。
偏った方がドラマや映画は作りやすいのはわかります。しかし、もっと公平な論調を元にした歴史番組や時代劇が増えてもいいのではと思います。

資料の奥羽列藩同盟は外国から武器を調達したことがあること、薩摩が薬用として牛肉を屠る人員を回せと小荷駄方に通達したことなど、細々とした書面に、戦時中の生活の様子が窺えます。

それにしてもこの大混乱の中、これだけの書面を残した武士(日本人)の几帳面さには驚く。

2018-07-10T16:22:55.jpg

2018-07-10T16:22:55.jpg
↑錦旗の御旗に惑わされた幕府軍。帝に恐れをなしたというより、賊軍という負けた後の汚名を着せられることばかり考えている弱腰さがみてとれる

2018-07-01T18:02:52.jpg

2018-07-01T18:02:52.jpg
↑容保の死一等の~とあります

2018-07-10T16:22:55.jpg

2018-07-10T16:22:55.jpg
↑「賊将大久保」との記述

2018-07-01T18:02:52.jpg

2018-07-01T18:02:52.jpg

↑「高輪薩州の藩邸で西郷吉之助と面談」とあります

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー